タモリ・ボードビル・ウィーク──1977年、日本芸能界の異端児が開いた新たな扉
1977年に開催された「タモリ・ボードビル・ウィーク」は、当時の芸能界において異色の試みとして注目されたイベントだった。タモリという存在は、この時代の芸能界の流れの中で特異な位置を占めており、既存のテレビタレントとは異なるアングラ的な魅力を持っていた。彼のスタイルは、当時の芸能界に根付いていた「伝統的なエンターテインメント」とは一線を画すものであり、そこにボードビル(大衆演劇)という古典的な要素を組み合わせること自体が、一つの挑戦であった。
1977年の芸能界の状況
1970年代後半の日本の芸能界は、大きな転換期を迎えていた。1960年代から続いた高度経済成長の影響で、テレビはすでに国民の娯楽の中心となっており、バラエティ番組が急成長する中で、タレントの地位も変化していた。この時代の芸能界は、大きく分けると「伝統的な芸人・演芸文化」と「新しいスタイルのエンターテイメント」が交差する時期だった。
例えば、漫才や落語といった古典芸能は依然として根強い人気を持ちつつも、1970年代半ばからは漫才ブームの火種が生まれ、ビートたけしや島田紳助といった次世代の芸人が頭角を現し始めていた。テレビでは、ドリフターズの『8時だョ!全員集合』が大衆向けの笑いを提供し続ける一方で、よりインテリ向けのユーモアや風刺を取り入れた番組も増えていた。このような時代の変化の中で、タモリは特に「知的で実験的な笑い」を持ち味とする存在として登場した。
タモリの異端性とボードビルとの融合
タモリは、1975年に赤塚不二夫に見出され、1976年にテレビデビューを果たしたが、当初は一般的なタレントというよりも、アングラ文化やジャズ界隈で話題になった「謎の人物」として認識されていた。彼の芸風は、当時のテレビバラエティとは大きく異なり、「ハナモゲラ語」と呼ばれる意味不明の言葉を使った即興芸や、各国語のインチキ通訳、さらには音楽や映画のパロディなど、既存のエンタメの枠を壊すようなものだった。
そんなタモリが開催した「タモリ・ボードビル・ウィーク」は、単なるライブイベントではなく、従来の芸能文化と新しい笑いの融合を試みる実験的な場であった。ボードビル(Vaudeville)は19世紀末のアメリカで発展した大衆演芸の一形態で、日本では昭和初期の劇場文化ともリンクしている。歌や踊り、寸劇、手品、コメディなどを織り交ぜたショー形式は、戦前の日本のエンターテインメントの基盤の一つとなっていた。しかし、戦後のテレビ普及とともに、ボードビル的な芸は急速に衰退し、より計算されたバラエティ番組に取って代わられるようになっていた。
タモリは、この古典的なエンターテインメントに再び光を当てる形で、「ボードビル」の概念を再解釈し、新しい形で提示しようとした。彼のイベントには、漫画家の赤塚不二夫や、ジャズピアニストの山下洋輔などがゲストとして参加しており、単なるコントや漫談だけでなく、音楽や演劇的要素を取り入れた実験的な試みが行われた。
伝統と前衛の狭間で
「タモリ・ボードビル・ウィーク」は、単なるコメディショーではなく、日本の芸能文化の中で忘れ去られかけていた伝統と、当時最も先鋭的だったアングラ的な笑いを融合させる試みだったと言える。このイベントは、のちのタモリの芸風にも影響を与えたと考えられる。彼はその後、『笑っていいとも!』などの王道バラエティに進出し、芸能界の中心的存在となったが、デビュー当初はこのようにアングラ的な試みを積極的に行っていた。
また、1977年という時代は、テレビの娯楽が急速に進化し、既存の芸能と新しい潮流がせめぎ合う時期だった。漫才ブームの前兆があり、また、音楽界ではニューミュージックの流れが強まり、大衆文化のあり方そのものが変わりつつあった。そんな中で、「タモリ・ボードビル・ウィーク」は、一種の実験場として、当時の芸能文化に一石を投じる役割を果たしていたのではないか。
まとめ
タモリが1977年に開催した「タモリ・ボードビル・ウィーク」は、伝統的なエンターテインメントと新しい笑いの融合を目指した実験的なイベントだった。漫才ブームの到来前夜、テレビの娯楽が進化しつつあった時代に、タモリのようなアングラ的な存在が伝統芸能にアプローチしたことは、単なる一過性の企画ではなく、当時の芸能文化の変化を象徴する出来事だった。彼はこのイベントを通じて、単なる芸人ではなく、文化的な変革者としての側面を見せ始めていたのかもしれない。
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